「願わくば花の下にて春死なん」の意味と西行法師が遂げた最期の真相

話題沸騰中の 「願わくば花の下にて春死なん」の意味と西行法師が遂げた最期の真相について、詳しいまとめをご紹介しています。

この名歌を深く理解する上で、多くの人が見落としがちな決定的な史実があります。それは、「この歌は亡くなる直前の病床で詠まれた辞世の歌ではない」という点です。

西行の私家集である『山家集(さんかしゅう)』を丹念に調査すると、この歌は西行が60歳前後、すなわち亡くなる10年以上前の治承年間(1177年〜1181年頃)にすでに詠まれていたことが判明しています。つまり西行は、死の床で「ああ、桜の下で死ねたらいいのに」と漏らしたのではなく、健康なうちから「自らの理想とする死の光景」を明確にイメージし、それから10年以上の歳月をかけてその通りの最期を現実のものへと手繰り寄せたのです。

ここで、西行の生涯における死のデータと、関連する勅撰和歌集などの記録を比較表にまとめました。

項目史実データ・詳細当時の基準・歴史的文脈専門的な見解・評価作歌時期治承年間(1177〜1181年頃)
西行60歳前後の作通例の辞世は臨終間際や数日前10年以上前から自らの終焉を設計していた構想力の結晶。逝去年月日文治6年(1190年)旧暦2月16日
享年73(数え年)平安末期の貴族平均寿命は40〜50代当時としては極めて長命。釈迦命日(2月15日)とほぼ完全合致。終焉の地河内国・弘川寺(大阪府河南町)役行者ゆかりの葛城山麓の霊場桜の名所であり、死に場所として周到に選定されていた。収録歌集『山家集』『続古今和歌集』
(巻17・雑歌上・1527)勅撰集への採録は国家公認の栄誉『新古今和歌集』最多入集歌人としての西行神話を決定づけた。同時代人の反応藤原定家『明月記』、慈円『愚管抄』等に驚嘆の記録天変地異や仏徳として捉えられた死をもって和歌の霊力(歌徳)を証明した事件とみなされた。

文学史において極めて重要なのは、新古今和歌集 西行という構図です。『新古今和歌集』を撰進した藤原定家や後鳥羽院にとって、西行は神聖視されるほどの精神的カリスマでした。同集において西行は単独最多となる94首が入集しています。

なお、この「願わくば〜」自体は『新古今和歌集』ではなく、その後の勅撰集である『続古今和歌集』に収められています。しかし、定家をはじめとする新古今の歌人たちが西行の最期に抱いた畏敬の念が、『新古今和歌集』全体の幽玄・妖艶な美意識を決定づける原動力となったことは疑いようのない事実です。

高橋 健太

高橋 健太

ライフスタイル編集者

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。

Share this article
Twitter Facebook Pinterest