大隈重信は何をした人?早稲田創設と右脚切断の真相、波乱の生涯を徹底解説

大隈重信は何をした人?早稲田創設と右脚切断の真相、波乱の生涯を徹底解説の基礎知識と応用に迫る! わかりやすい言葉で紐解きます。

大隈重信に関する歴史的言説のなかには、現代のインターネット上で広まっているいくつかの誤解や見落とされがちな事実が存在します。

誤解1:創設者なのに、大隈は早稲田大学のキャンパスに長年足を踏み入れなかった?

これは事実です。1882年に東京専門学校を開校させた大隈ですが、実は創立から実に25年間、キャンパスを公式訪問していません。初めて早稲田の土を踏んだのは、1907年(明治40年)、東京専門学校が「早稲田大学」へと改称し、自身が総長に就任した記念式典の日のことでした。

なぜ自らが私財を投げ打って作った学校へ行かなかったのか。その理由は「愛の深さゆえの配慮」でした。当時、大隈は政府から「危険人物」として厳重にマークされていました。創設者が頻繁に学校へ顔を出せば、警察の取り締まりや政府の介入を招き、学生たちの学業や就職に不利益が及ぶと考えた大隈は、あえて姿を隠し、鳩山和夫や高田早苗ら信頼する弟子たちに運営のすべてを託したのです。

誤解2:暗殺犯である来島恒喜を恨み、一族を追及したのか?

右脚を奪われた大隈の対応は、常人の器を遥かに超えていました。自決した犯人・来島恒喜の報を聞いた大隈は、怒り狂うどころか「彼もまた日本の将来を憂う熱情の持ち主であった。その志は哀れむべきである」と述べ、犯人を怨む言葉を一言も口にしませんでした。

それどころか、大隈は後に来島の遺族を探し出し、密かに生活費の援助を行っていたことが関係者の記録で明らかになっています。暴力に暴力で応じず、テロリズムの背景にある国家の歪みを見つめた大隈の人間的器量は、敵対していた政敵たちをも沈黙させました。

鈴木 陽菜

鈴木 陽菜

テックライター兼ウェブディレクター

暮らしを豊かにする便利アイテムや時短アイデアを中心に、実用的な情報をお届けします。

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