武市半平太はなぜ三文字切腹へ至ったのか?土佐勤王党の真実と生涯
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武市半平太が命を落とす直接の契機となったのが、文久2年(1862年)の吉田東洋暗殺事件です。参政として藩政改革を推し進めていた吉田東洋は、公武合体派であり、尊皇攘夷派の土佐勤王党とは真っ向から対立していました。半平太率いる勤王党の刺客によって東洋が暗殺されたことで、一時的に勤王党が藩政の主導権を握ります。
しかし、文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」で京都の政局が一変し、尊皇攘夷派が失脚すると、前藩主・山内容堂による大弾圧が始まりました。公武合体を支持する容堂にとって、東洋を殺害し藩主を操ろうとした勤王党は許しがたい存在でした。半平太は投獄され、1年8か月に及ぶ過酷な尋問を受けることになります。
過酷な拷問にも半平太は東洋暗殺の関与を一貫して否認し続けました。物証が揃わない中、容堂が下した処分理由は「君上の意に背き、徒党を組んで藩政を乱した罪(主君に対する不敬)」でした。暗殺犯としてではなく、政治的責任を取らせる形での「切腹申し付け」という結末は、容堂の冷徹な政治判断によるものでした。