大西瀧治郎の自決理由と遺書の真相|特攻の父が背負った壮絶な十字架
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大西瀧治郎が特攻の父と呼ばれた経緯を振り返ると、そこには当時の日本海軍が直面していた絶望的な戦力差がありました。1944年10月、フィリピン防衛戦の天王山となったレイテ沖海戦を前に、大西は第一航空艦隊司令長官としてマニラに着任します。
当時の現地航空戦力は壊滅的でした。可動機数はわずか30機から40機程度。対する米軍は数百隻の艦隊と数千機の最新鋭機を擁していました。捷一号作戦を成功させ、栗田健男中将率いる戦艦部隊をレイテ湾へ突入させるためには、敵空母の飛行甲板を半日でも使用不能にして制空権を奪う必要がありました。正攻法の爆撃や雷撃では、米軍の強力なレーダー網と近接信管(VT信管)に対抗できず、部隊は敵艦に近づくことすらできずに全滅する状況に追い込まれていたのです。
1944年10月19日夜、マバラカット飛行場の執務室で、大西は参謀や部隊幹部を集め、神風特別攻撃隊創設の決断を下しました。「250キロ爆弾を零戦に装着させ、敵空母の甲板に体当たりさせる以外に道はない」と告げた大西の顔は青ざめ、声は震えていたと伝えられます。最初の特攻隊指揮官として選ばれた関行男大尉に対して大西自らが頭を下げた場面は、まさに特攻作戦と大西瀧治郎の葛藤を象徴する出来事でした。
当時、大西は周囲に対して「特攻は統率の外道である。しかし、これによって講和の糸口を掴み、日本が焦土と化す前に戦争を終わらせるのだ」と漏らしていました。しかし、現場の一時的な奇策として発案された特攻は、軍令部や大本営によって常態化・制度化され、日本全国から何千人もの若者を吸い込む巨大な死のシステムへと肥大化していきました。大西はそのシステムの責任者として、永遠に「生みの親」の汚名を背負うことになったのです。