京都東本願寺の全貌解剖|東西分裂の真相と無料拝観に秘めた歴史

京都東本願寺の全貌解剖|東西分裂の真相と無料拝観に秘めた歴史の見逃せないポイントを徹底的にカバーしました。

東本願寺を語る上で避けて通れないのが、「なぜ京都の目と鼻の先に、東と西の二つの本願寺が存在するのか」という歴史の謎です。その発端は、織田信長と本願寺第11代門首・顕如(けんにょ)が10年にわたり死闘を繰り広げた「石山合戦(1570〜1580年)」の終結時にまで遡ります。

当時、朝廷の仲介を受け入れて信長との和議に応じ、大坂・石山本願寺を退去しようとした顕如に対し、長男の教如(きょうにょ)は徹底抗戦を主張して篭城を続けました。この教団内の路線対立が、父子・兄弟間の深刻な確執を生むことになります。その後、顕如が示寂すると三男の准如(じゅんにょ)が第12代を継承し、現在の西本願寺(浄土真宗本願寺派)の礎が築かれました。

ここに決定的な介入を行ったのが、天下統一を目論む徳川家康です。家康は関ヶ原の戦いを経た1602(慶長7)年、教如に対して烏丸六条の広大な寺地を寄進し、新たな本願寺の建立を公認しました。これが現在の東本願寺(真宗大谷派)の始まりです。

歴史学者や宗教社会学者の分析によると、家康の意図は極めて明確でした。当時、大名勢力すら凌駕する結束力と財力を誇っていた一向宗(浄土真宗)の教団組織を、教如派(東)と准如派(西)の二つに制度的に分断することで、幕府に対する潜在的脅威を無力化・抑制する「分割統治(Divide and conquer)」政策を断行したのです。こうして誕生した東本願寺は、親鸞聖人の血脈と教えを受け継ぎながら、江戸幕府との独自の距離感を保ちつつ独自の発展を遂げていくこととなりました。

田中 結衣

田中 結衣

デジタルマーケティングコンサルタント

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。

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