ドリフターズ初期メンバーが脱退した衝撃の真相|知られざる結成秘話
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ウエスタンバンドとして一定の人気を確立していたドリフターズに、最大の転機が訪れたのは1960年代初頭のことでした。リーダーの桜井輝夫がプレイヤーを引退して裏方(マネジメント)に専念することを決意し、1964年にベース担当として腕を鳴らしていたいかりや長介(当時は碇矢長一)を新リーダーに指名したのです。このいかりや長介リーダー就任こそが、グループの運命を大きく変える引き金となりました。
いかりや長介は就任直後から、グループの生き残りをかけて徹底した改革を断行します。従来の生ぬるい演奏営業から脱却し、台本を緻密に作り込む「音楽コント(コミックバンド)」への完全移行を掲げました。しかし、この厳格なスパルタ指導とワンマン体制が、旧来のメンバーとの間に深い亀裂を生むことになります。
最大の爆発点となったのが、小野ヤスシ脱退の真相として語り継がれる1964年のクーデター劇です。当時、バンドの司会進行として絶大な人気を誇っていた小野ヤスシは、いかりやの独裁的な演出方針や、営業ギャラの配分を巡る不透明感に強い不信感を募らせていました。小野自身が後年のインタビューや手記で振り返っているように、「自分たちが汗を流してステージを盛り上げているのに、すべてがいかりやさんの意のままに差配される空気に耐えられなかった」という鬱屈が限界に達していたのです。
結果として、小野ヤスシ、ジャイアント吉田、猪熊虎五郎、飯塚文雄の4名が結託し、巡業先で突如としていかりやに反旗を翻して一斉脱退。これがドンキーカルテット結成の経緯となりました。彼らはコミックバンド「ドンキーカルテット」を立ち上げ、卓越したギャグセンスとシャープな演奏力で一躍お茶の間の人気者となります。一方で、残されたドリフターズは、リーダーのいかりや長介と、当時まだ付き人から昇格したばかりでいかりやへの義理を選んだ最年少の加藤茶のわずか2名だけという、事実上の活動休止状態に追い込まれました。