徳川光圀の真実|水戸黄門との違いや大日本史の功績・漫遊の嘘を検証
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徳川光圀の人間性を語る上で欠かせないのが、複雑な家族関係と後継者選びに見られる徹底した「筋の通し方」です。
光圀の正室は、関白を務めた公家の近衛信尋の娘・尋子(泰姫)です。政略結婚でありながら夫婦仲は極めて良好でしたが、尋子は20代半ばで早世し、光圀はその後二度と正室を迎えませんでした。側室との間には長男の松平頼常(よりつね)が生まれましたが、光圀はこの実子に水戸藩を継がせませんでした。
兄・松平頼重を差し置いて自分が水戸藩主となったことに生涯強い負い目を感じていた光圀は、兄の長男である徳川綱條(つなえだ)を養子に迎え、水戸藩第3代藩主の座を譲りました。一方で、自身の実子である頼常は兄・頼重の養子に出し、讃岐高松藩の第2代藩主とさせたのです。
兄弟の間で互いの子を交換して跡を継がせるというこの前代未聞の継承劇は、血縁の争いが絶えなかった武家社会において、義理と礼節を重んじた光圀ならではの決断として称賛されました。この配慮によって水戸徳川家と高松松平家の絆は強固なものとなり、血脈は近代以降へと受け継がれていきました。