【真相】溥儀はなぜ皇帝でなく「執政」に?関東軍と対立した決定的な理由

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1931年9月18日の柳条湖事件を発端とする満洲事変以降、関東軍はわずか数か月で中国東北部全域を制圧しました。彼らが描いた青写真は、中国本土から完全に切り離された「新国家」の樹立です。その国家元首のシンボルとして白羽の矢が立てられたのが、天津の日本租界に幽閉同然の生活を送っていた愛新覚羅溥儀でした。

溥儀が満洲行きを決断した最大の動機は、「愛新覚羅家の父祖の地で清朝を復活させ、大清帝国の皇帝へ返り咲くこと」にありました。1912年の辛亥革命による退位、1924年の北京政変による紫禁城追放という屈辱を味わい続けた溥儀にとって、満洲での復辟は生涯をかけた悲願だったのです。

関東軍の参謀たち――特に国家建設の実務を取り仕切った板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐らの構想は全く異なっていました。関東軍が目指したのは、大清帝国の復活ではなく、漢・満・蒙・日・朝の五民族による「五族協和」と「王道楽土」を掲げる新しい共和国でした。もし溥儀を最初から「皇帝」として擁立すれば、旧態依然とした封建君主制の復活とみなされ、中国国民党政府のみならず、国際連盟をはじめとする欧米列強から激しい非難を浴びることは火を見るより明らかだったためです。

「清朝の皇帝として君臨したい溥儀」と、「近代的な新国家の体裁を取り繕いたい関東軍」。両者の思惑は、国家の根本形態を巡って正面から激突しました。関東軍は新国家の政体を共和制寄りの立憲政体とし、その元首職として暫定的な最高権力者である「執政」のポストを用意したのです。

佐藤 大輔

佐藤 大輔

シニアコンテンツプロデューサー

最新のテクノロジーと生活デザインの融合をテーマに、国内外の最新トピックを発信しています。

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