徳川家斉なぜ子だくさん?50年在位と大奥浪費の真相を徹底解剖

徳川家斉なぜ子だくさん?50年在位と大奥浪費の真相を徹底解剖とは一体何なのか? 詳しい意味を丁寧に紐解いて紹介します。

家斉の50年に及ぶ治世は、前半と後半でまったく異なる様相を呈しています。その決定打となったのが、老中首座・松平定信との激しい路線対立と確執でした。

天明7年(1787年)、家斉が将軍に就任した直後の日本は、天明の大飢饉と浅間山の大噴火による大混乱の只中にありました。田沼意次による重商主義が賄賂政治とインフレを招いたと批判される中、幕府再建のために抜擢されたのが白河藩主の松平定信です。定信が推進した「寛政の改革」の理由は、徹底した倹約令、農村の復興、朱子学の国学化(寛政異学の禁)、旗本・御家人の借金を帳消しにする「棄捐令(きえんれい)」によって、幕府の威信と封建秩序を取り戻すことにありました。

しかし、厳格で理想主義的な定信の政治手法は、若き家斉にとって耐え難い重圧となっていきます。両者の決定的な亀裂となったのが、歴史上名高い「尊号一件(そんごういっけん)」です。

実父である一橋治済を深く慕っていた家斉は、父に「大御所」の尊号を贈り、前将軍と同格の礼遇を与えようと画策しました。これに対し定信は、「将軍職に就いていない者に大御所の号を与えるのは儒教の礼教秩序に反する」と頑として拒絶。朝廷における光格天皇の父への尊号問題とも連動し、幕閣を揺るがす大政争へと発展しました。激怒した家斉は定信を疎むようになり、過度な緊縮財政に庶民や大奥からも不満が噴出した結果、わずか6年余りで定信は老中を失脚することになります。

口うるさい監視役を排除した家斉は、自らの意のままになる側近たちを重用し始めます。天保8年(1837年)に次男の徳川家慶に将軍職を譲った後も、自らは「大御所」として西の丸に移り、死ぬまで幕政の実権を握り続けました。この放漫と妥協に満ちた「大御所時代」こそが、幕府の財政破綻を決定づける暗黒期となったのです。

中村 さくら

中村 さくら

マネー&キャリアエディター

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。

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