織田信長の妻・濃姫の真相に迫る|本能寺討死か生存か?史実と最期

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濃姫の生涯における最大の焦点は、天正10年(1582年)6月2日に勃発した本能寺の変における動向と最期(死因)です。大衆文化では「信長と共に薙刀を振るって明智軍を迎え撃ち、華々しく散った」という討死ルートが定番化していますが、同時代の客観的記録を洗うと全く異なる光景が浮かび上がります。

本能寺で信長と共に命を落とした女性たちについて、一次史料『信長公記』には「菅屋長頼の妻」をはじめとする女房衆の殉難や避難の様子が記されていますが、そこに濃姫に該当する正室の戦死記録は存在しません。当時、主君の正妻が京都の本能寺のような前線拠点の宿舎に同行することは極めて異例であり、彼女は当時、織田家の本拠地であった安土城に滞在していたと考えるのが歴史学的に極めて自然です。

現在、歴史研究者の間で最も有力な根拠とされているのが、織田家の菩提寺である京都・大徳寺塔頭総見院の公的記録や過去帳に登場する「安土殿(あづちどの)」の存在です。

『総見院殿追善記』および尾張藩の記録によると、信長の一周忌法要において正室としての格式で焼香を行い、信長の次男・織田信雄から手厚い化粧料(生活費)を給付されていた女性が存在します。この「安土殿」は本能寺の変後も平穏に生き続け、慶長17年(1612年)7月9日に逝去しました。戒名は「養華院殿要津妙法大姉」。享年は78歳前後と推計され、大徳寺総見院に手厚く葬られています。

なぜ濃姫の記録が一時的に史料から途絶えたのかについて、かつては「父・道三が長良川の戦いで敗死した後に離縁された」「若くして病死した」とする説も唱えられました。しかし、信長が美濃平定後も斎藤一族を重用し、岐阜城を拠点とした事実を照合すると、同盟の絆であった正室を冷遇・追放したとは考えにくく、奥深くに身を置いて織田家の威厳を守り続けた末の「安土殿」としての余生が、最も史料整合性の高い真実として支持を集めています。

井上 凛

井上 凛

シニアコンテンツプロデューサー

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。

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