「ふるさとは遠きにありて思ふもの」詩の真相|室生犀星の壮絶な叫び

「ふるさとは遠きにありて思ふもの」詩の真相|室生犀星の壮絶な叫びを詳しくリサーチ! 知っておきたい 重要ポイントを凝縮して配信します。

詩人が故郷に抱いた凄まじい愛憎の根底には、幼少期から彼を苛み続けた残酷な生い立ちが存在します。

室生犀星(本名・照道)は1889年(明治22年)、加賀藩の元足軽頭であった小畠弥左衛門吉種と、その家に女中として雇われていた女性「ハル」の間に生まれました。当時すでに60代半ばを過ぎていた父親は、私生児として生まれた赤子を自らの戸籍に入れることを許しませんでした。生後わずか数日で生母から引き離された犀星は、近隣の真言宗寺院「雨宝院」の住職・室生真乗の内縁の妻であった「ハツ」のもとへ里子に出され、のちに室生家の養子となります。

実母の顔を知らぬまま育った犀星にとって、寺の生活は孤独そのものでした。養父母との関係は冷え切り、寺に出入りする人々や地域の共同体からは「私生児」「もらい子」として常に差別的な視線を浴びせられ続けました。犀星が自伝的小説『幼年時代』や『性に眼覚める頃』で赤裸々に描いたように、古い城下町である金沢の閉鎖的な身分意識と世間体は、出自に傷を持つ幼い少年の自尊心を容赦なく踏みにじったのです。

高等小学校をわずか12歳で中退せざるを得なかった犀星は、金沢地方裁判所の給仕(雑用係)として働き始めます。そこで出会った上司や知人の影響で文学や俳句にのめり込み、生きづらさを言葉で昇華しようと必死にもがきました。20歳を過ぎて文学での身立てを期して上京したものの、無名青年に東京の現実は厳しく、栄養失調と極貧に苛まれて帰郷を繰り返すことになります。

彼が帰郷した際、金沢の旧知の人々が投げかけたのは「東京で夢破れて逃げ戻ってきた恥さらし」という冷笑でした。肉親の愛に飢え、居場所を求めて戻ったはずの原風景に、自分を受け入れてくれる余地など最初から一片も残されていなかった。この断絶体験が、犀星の胸中に「二度と帰らぬ」という猛烈な反骨心を刻みつけたのです。

中村 さくら

中村 さくら

マネー&キャリアエディター

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。

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