征韓論とは?西郷隆盛と大久保利通の対立真相と西南戦争への結末
征韓論とは?西郷隆盛と大久保利通の対立真相と西南戦争への結末について知っておくべき 理由を厳選して解説いたします。
対立を決定的にしたのは、当時の明治政府首脳部が「国内を守る留守部隊」と「海外視察部隊」に二分されていた構造にあります。1871年(明治4年)から1873年(明治6年)にかけて、不平等条約の改正交渉と先進技術・制度の視察を目的として岩倉使節団が欧米へ派遣されました。政府のツートップであった岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らが不在の間、日本国内の政務を任されたのが西郷隆盛を中心とする留守政府でした。
留守政府には西郷のほか、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、大隈重信らが名を連ねていました。使節団の出発時、「大規模な改革や人事の変更は行わない」という約定が交わされていたものの、留守政府は学制の発布、徴兵令の施行、地租改正といった近代化の基本政策を驚異的なスピードで次々と断行していきました。この実績が留守政府側の自信を生み、後の対外強硬論へと接続していきます。
使節団が帰国した際、留守政府内で既に「西郷の朝鮮派遣」が内定していた事実を知った大久保らは激しい危機感を抱きました。大久保が記した意見書『意見大意』には、「外征を行えば巨額の戦費がかかり、財政は破綻し、英国やロシアなどの欧米列強に付け入る隙を与える」という極めて現実的な国際政治の分析が論理的に展開されていました。