支倉常長が背負った悲劇の真相と奇跡|ローマ教皇謁見からハポン姓まで
支倉常長が背負った悲劇の真相と奇跡|ローマ教皇謁見からハポン姓までにまつわる興味深い視点を詳しく紐解きます。
通商条約の締結という実務的成果をスペイン国王から拒絶された常長は、失意の中で帰国の途につきました。往路以上の困難を極めた航海の末、1620年8月、実に7年の歳月を経て仙台の地を踏みます。しかし、彼を迎えた現実はあまりにも無残なものでした。これが今日まで語り継がれる支倉常長 帰国後の悲劇の始まりです。
常長が日本を離れていた間に、国内情勢は完全に暗転していました。1614年、徳川家康は全国規模でキリシタン禁教令を発令し、高山右近をはじめとする信徒を国外追放処分に処していました。さらに1615年の大坂の陣によって豊臣宗家が滅亡し、徳川による絶対的な幕府支配体制が確立。幕府の意向に逆らえない伊達政宗は、生き残りのために自領内でも徹底的なキリシタン弾圧へと舵を切らざるを得なくなっていたのです。
支倉常長 失敗の理由を歴史的に検証すると、常長の交渉能力不足ではなく、「国際情勢の時間差」と「国内政治の地殻変動」がすべてを狂わせたことが分かります。政宗の親書を携えた常長がローマで歓呼を浴びていた瞬間、本国ではすでにキリシタンの処刑や追放が進んでいました。ヨーロッパ側から見れば、国内で信徒を弾圧している国の地方領主と通商協定を結ぶ理由など毛頭なく、常長は梯子を外された形となったのです。
帰国した常長に対する政宗の態度は極めて冷淡でした。幕府の厳しい監視下にあった仙台藩において、洗礼を受け教皇に拝謁した常長の存在は、藩の存亡を揺るがす「政治的火種」以外の何物でもありませんでした。公式な歓迎式典は一切行われず、常長が持ち帰った膨大な外交文書や十字架、ロザリオ、肖像画などは藩によって厳重に封印・没収されました。常長自身も領地での蟄居に近い隠棲を余儀なくされ、表舞台から完全に消し去られることとなったのです。