怪僧ラスプーチンの正体と暗殺の真相|ロマノフ王朝崩壊の闇を暴く

怪僧ラスプーチンの正体と暗殺の真相|ロマノフ王朝崩壊の闇を暴くに関する深掘り解説を丁寧に解説いたします。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、事態は破局へと加速します。前線の士気を鼓舞するためにニコライ2世自らが最高総司令官としてモギレフの軍司令部へと赴いた結果、後方のペトログラード(開戦に伴い改称)の国政は、アレクサンドラ皇后と彼女に助言を与えるラスプーチンに委ねられることになりました。

ドイツ出身であった皇后は民衆から「ドイツのスパイ」と激しく疑われており、そこに不潔で好色な噂の絶えないラスプーチンが介入したことで、宮廷の権威は地に堕ちました。ラスプーチンに諂う無能な側近が大臣に任命され、意に沿わない有能な閣僚が次々と更迭される混乱は「大臣跳び箱(Министерская чехарда)」と嘲笑され、行政機能は完全に麻痺。前線への補給は途絶え、首都ではパンの配給を待つ民衆の飢えと怒りが爆発寸前に達していました。

死の直前、ラスプーチンがニコライ2世に書き送ったとされる有名な「死の予言書」には、背筋の凍るような言葉が刻まれていました。

「もし私が農民の手によって殺されるなら、ロシアの皇帝よ、そなたの王座は揺らぐことはない。しかし、もし私が貴族たち、そなたの身内によって殺されるなら、皇帝の一族は誰一人として生き残ることはできず、ロシアの貴族は国外へ追放され、国は血の海に沈むだろう」

この予言は見事に現実のものとなります。1916年12月にユスポフら大貴族の手でラスプーチンが暗殺されると、宮廷を浄化して帝政を救うどころか、国民の怒りは直接皇帝一家へと向けられることになりました。わずか2か月半後の1917年2月革命によってニコライ2世は退位を余儀なくされ、300年続いたロマノフ王朝はあっけなく崩壊。そして1918年7月、エカテリンブルクのイパチェフ館の地下室で、皇帝一家7人はボリシェヴィキの銃撃隊によって全員無残に銃殺されたのです。

高橋 健太

高橋 健太

ライフスタイル編集者

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。

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