中大兄皇子はなぜ蘇我氏を討ったのか?天智天皇の知られざる暗闘と真相
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中大兄皇子をめぐる最大の謎の一つが、「乙巳の変を主導した実力者でありながら、なぜすぐさま天皇に即位しなかったのか」という点です。クーデター成功後、即位したのは叔父の孝徳天皇であり、孝徳が難波宮で孤立して没した後は、実母である皇極天皇が斉明天皇として再び即位(重祚:ちょうそ)しました。中大兄皇子が「天智天皇」として正式に即位礼を挙げたのは、668年。事件から実に23年もの歳月が流れていました。
中大兄皇子と天智天皇の違いは、単なる呼称の変化ではありません。前者は「血生臭い粛清を辞さない非情な軍事独裁・政治推進者」であり、後者は「律令法規を整備し、国家の制度的枠組みを完成させた法治統治者」という、政治的フェーズの決定的な差異を意味しています。
即位を避けた決定的な理由は、「血塗られた暗殺者」に対する貴族層の根強い反発と不信感をかわすためでした。クーデター直後の朝廷内には、蘇我氏与党や旧態依然とした有力豪族の抵抗勢力が依然として渦巻いていました。もし自らが帝位に就けば、すべての怨嗟が一身に集中します。そこで母や叔父を「名目上の君主」として玉座に据え、自らは皇太子という無責任かつ強大な権力ポジションから指図を出す院政の先駆けともいえる政治構造を作り上げたのです。
さらに、母・斉明天皇との異様な共依存関係も見逃せません。中大兄皇子の家系図を紐解くと、父は舒明天皇、母は皇極・斉明天皇という非の打ち所のない直系皇族ですが、弟にはのちに覇権を争う大海人皇子が控えていました。斉明天皇の狂気とも思える土木事業や対外派兵を影で操り、反対派の古人大兄皇子や有間皇子を次々と冤罪に陥れて謀殺していった冷酷な皇太子時代こそ、中大兄皇子の本質でした。