アームストロング砲の真実|幕末と銀魂を揺るがした最強兵器の正体

アームストロング砲の真実|幕末と銀魂を揺るがした最強兵器の正体の見逃せないポイントを徹底的にカバーしました。

日本の歴史愛好家の間で長年激しい論争の的となってきたのが、「佐賀藩はアームストロング砲を自力で完全に複製・製造できたのか?」という疑問です。かつての歴史小説や俗説では「佐賀藩の驚異的な技術力でアームストロング砲の密造に成功した」とドラマチックに描かれることが少なくありませんでした。

しかし、近年の佐賀城本丸歴史館や防衛研究所所蔵の一次史料、幕末史研究者による丹念な調査によって、その歴史的真相が明らかになっています。

結論から言えば、佐賀藩はアームストロング砲の図面を入手し、製造に向けた試作実験を重ねたものの、実戦に耐えうる完成度の国産アームストロング砲を量産することには至りませんでした。後装式の閉鎖機構(スクリュー・ブリーチブロック)にかかる猛烈な爆発圧力に耐える高度な鍛造鋼技術や、ガス漏れを完全に封殺する超精密加工技術は、産業革命を成し遂げた当時の英国本国においてすら歩留まりの悪さに苦しんでいた最先端技術だったからです。

では、戊辰戦争で猛威を振るった砲はどこから来たのか。史実の記録によれば、佐賀藩は武器商人のトーマス・グラバーなどを介して、英国から正規品のアームストロング砲および関連弾薬を購入・輸入していました。慶応4年(1868年)の上野戦争において、彰義隊が籠もる寛永寺を壊滅させた砲撃は、本郷の加賀前田家屋敷(現在の東京大学本郷キャンパス構内)から打ち込まれたとされていますが、実戦投入されたのはこの輸入されたアームストロング砲数門と、佐賀藩が独自に改良した最新鋭野砲群でした。

当時の従軍記録や現場の日記には、「弾道が唸りを上げて上空を通過し、寛永寺の黒門周辺を一撃で木っ端微塵に粉砕した」「敵はどこから撃たれたのかすら理解できずパニックに陥った」という生々しい証言が残されています。国産か輸入かという議論を超えて、佐賀藩が構築した運用システムと射程距離の優位性が、旧幕府勢力を心理的にも物理的にも完全に圧倒した事実に揺るぎはありません。

中村 さくら

中村 さくら

マネー&キャリアエディター

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。

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