絵島生島事件の真相とは?大奥最大の密会疑惑と権力闘争の全貌
絵島生島事件の真相とは?大奥最大の密会疑惑と権力闘争の全貌について分かりやすく解説いたします。詳細な分析をチェックしてください。
事件の発端は、正徳4年(1714年)1月12日、絵島が主君である月光院(第6代将軍・徳川家宣の側室であり、幼少の第7代将軍・家継の生母)の代参として、徳川将軍家の菩提寺である芝・増上寺へ参詣したことでした。絵島生島事件わかりやすく解説すると、この参詣の帰路、絵島一行が木挽町(現在の東京都中央区銀座周辺)の芝居小屋「山村座」に立ち寄ったことがすべての狂乱の始まりでした。
山村座では、当時江戸中の女性を熱狂させていた人気歌舞伎役者・生島新五郎の舞台を観劇。その後、座主の山村長太夫が用意した宴席に招かれ、酒宴に興じた絵島は、大奥の門限(七ツ立ち=現在の午後4時頃)を大幅に遅れて城へ戻ることになります。当時の大奥法度において、門限破りは重大な規律違反でした。さらに後日、「絵島と生島新五郎が長押(なげし)の陰で密通していた」「大奥の奥女中たちが役者たちと乱痴気騒ぎを繰り広げていた」という密告がもたらされたことで、評定所を巻き込む大捜査へと発展したのです。
これが大奥絵島処分理由の表向きの建前ですが、現代の歴史研究では、単なる門限破りや観劇の延長で1,000人以上が処罰されるのは極めて不自然であると結論付けられています。そこには、大奥内外を二分していた巨大な派閥対立が存在していました。