クレムリンの意味とは?城塞の語源からロシア権力の真相を暴く
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モスクワのクレムリンが権力の座となった歩みは、そのまま外敵の脅威と防衛の歴史と重なり合っている。記録上の最初の出現は1156年、スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーがモスクワ川とネグリンナヤ川の合流点に木造の砦を築いたことに遡る。泥炭地と森林に囲まれた小さな前哨基地にすぎなかった場所が、ロシア全土を支配する要塞へと変貌を遂げた契機は、13世紀にロシアを席巻したモンゴル帝国による侵略、いわゆる「タタールのくびき」であった。
度重なる焼き討ちと略奪を経験した支配者層は、より強固な防壁を求め続けた。14世紀のドミトリー・ドンスコイ大公は白石(石灰岩)を用いた城壁を構築し、これが「白亜のモスクワ」と呼ばれる起源となった。さらに15世紀末、モンゴル支配を完全に脱したイヴァン3世(大公)は、イタリア・ルネサンスの最先端要塞建築技術を導入するため、アリストーテレ・フィオラヴァンティらミラノやフィレンツェの名工を招聘した。このときに建設されたのが、現在世界遺産として目にする燕尾型(ツバメの尾のような凹凸)の狭間を持つ赤煉瓦の城壁と20の防衛塔である。スフォルツァ城などイタリア北部の要塞構造を取り入れたことで、クレムリンは当時ヨーロッパ最強レベルの防御力を獲得した。
1917年のロシア革命後、ウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキ政権は、外国干渉軍の脅威に晒されていたサンクトペテルブルクからモスクワのクレムリンへと首都を電撃的に再移転させた。帝政ロシアを打倒した革命政権が中世のツァーリの要塞に居を定めたことは、ロシアにおける権力が常に「防壁の内側」から振るわれるという構造的継続性を示している。ヨシフ・スターリン時代には要塞の塔の頂点に赤色巨星(クレムリンの赤い星)が掲げられ、共産主義体制の不可侵の心臓部として君臨した。