相撲の歴史年表完全版!神話から令和まで国技の知られざる変遷と裏側
相撲の歴史年表完全版!神話から令和まで国技の知られざる変遷と裏側にまつわる最新トピックを詳しく紐解きます。
多くの日本人が当たり前のように使っている「相撲=日本の国技」という認識。しかし、法律や公的文書のどこを探しても、相撲が日本の正式な「国技」として法制化されている条文は存在しません。では、なぜ相撲は国技と呼ばれるようになったのでしょうか。そこには、明治維新直後に訪れた大相撲の「存亡の危機」がありました。 明治初期、日本は急速な欧米化・近代化を推進しました。その過程で、力士が裸体で組み合う大相撲は「野蛮な前時代の遺物」として激しい批判にさらされます。文明開化の風潮の中で、東京府からは「散髪脱刀令」に呼応して力士の髷(まげ)を切るべきという論調が強まり、一時は裸体禁止令によって興行自体が禁止される寸前まで追い込まれました。 この壊滅的な危機を打開したのが、初代高砂浦五郎(高砂親方)をはじめとする関係者の政治的奔走と、相撲愛好家であった明治の元勲・伊藤博文の計らいでした。伊藤博文は明治天皇に対して相撲の歴史的・軍事訓練的価値を力説し、明治17年(1884年)3月10日、芝浜崎町にあった自邸に明治天皇をお招きして「天覧相撲」を実現させたのです。 明治天皇が力士たちの熱戦を終日観戦し、その技と力強さを高く評価されたという事実は、当時の社会に絶大な影響を与えました。「天皇が認めた武芸」という錦の御旗を得たことで、相撲に対する野蛮論は一夜にして霧散し、大相撲は国家的な公認競技として命脈を保つことができました。 その後、日露戦争の勝利を経てナショナリズムが高揚していた明治42年(1909年)、東京・両国に日本初の常設屋内相撲場が落成します。当初の命名案には「尚武館」や「常設館」などが挙がっていましたが、開館式の披露状起草を依頼された文学博士・尾上柴舟が、案内文の中に以下の文言を織り交ぜました。 「相撲は日本の古来の武技にして、実に見るに足る国技なり」 この文面に感銘を受けた当時の関係者が、建物の名称そのものを「国技館」と命名。常設館の呼称として使われた「国技館」が新聞報道などを通じて国民の間に広く浸透した結果、「相撲=日本の国技」という強固なパブリックイメージが定着していったのです。つまり、「国技」という呼称は法的な根拠によるものではなく、近代化の荒波の中で伝統を守り抜くために生まれた、民間の情熱とブランディングの結晶でした。