徳川三代将軍家光の凄絶な生涯|参勤交代と血の粛清が築いた260年の礎
徳川三代将軍家光の凄絶な生涯|参勤交代と血の粛清が築いた260年の礎に関する専門家の意見を分かりやすく解説いたします。
絶対権力を握った家光ですが、その権座に至る道のりは決して平坦ではありませんでした。幼少期の家光(幼名・竹千代)を苦しめたのが、実の弟である徳川忠長(幼名・国松)との間で勃発した徳川忠長 後継者争いです。
父・秀忠と母・江(崇源院)は、病弱で内にこもりがちだった兄・竹千代よりも、容姿端麗で才気活発だった弟・国松を溺愛しました。江戸城内では「次の将軍は国松様になるのではないか」という観測が支配的となり、竹千代は次第に孤立を深めていきます。家庭内での愛情の偏向は、幼い竹千代の精神に深い影を落としました。
この危機的状況を打破したのが、竹千代の乳母であった春日局(斎藤福)です。幕府の公式記録『徳川実紀』などの伝承によると、危機感を募らせた春日局は、伊勢参宮を名目に江戸城を脱出し、駿府城に隠居していた大御所・家康へ直訴を敢行しました。事態を重く見た家康は江戸城を訪れ、竹千代と国松が同席する場で、兄である竹千代を上座に据え、長子相続の原則を厳格に言い渡したと伝えられています。
長男相続のルールが確立したことで将軍位は家光へと継承されましたが、兄弟の確執は終わりませんでした。駿府藩主として55万石を与えられた弟・忠長は、自らの血筋への過信と兄への対抗心からか、領内で乱行を重ねるようになります。寛永8年(1631年)、家光は忠長に甲府への逼塞を命じ、翌年には改易。そして寛永10年(1633年)、上野国高崎へ配流されていた忠長に対し、冷酷にも切腹を命じました。享年28。血を分けた弟すら容赦なく排除する決断を下した背景には、二元政治や内乱の芽を完全に摘み取るという、統治者としての苛烈な覚悟が存在していました。