豊臣秀吉の年表総まとめ!農民から天下人へ駆け上がった出世の真相

豊臣秀吉の年表総まとめ!農民から天下人へ駆け上がった出世の真相の要点を分かりやすくまとめてご紹介します。

豊臣秀吉の生涯は、まさに戦国乱世の縮図そのものです。天文6年(1537年)に尾張国愛知郡中村(現在の愛知県名古屋市中村区)で誕生してから、慶長3年(1598年)に伏見城で没するまでの62年間における主要な出来事を、天下統一の経緯と年表として整理しました。

秀吉の歩みを俯瞰すると、信長に仕えて頭角を現す「雌伏の期」、本能寺の変からライバルを次々と排斥する「急伸の期」、そして関白就任から全国を平定し対外侵略へ向かう「絶頂と混迷の期」という3つのフェーズに明確に分かれます。

年代(西暦/和暦)年齢主要な歴史的事象・転換点歴史的意義・権力の推移1537年(天文6年)1歳尾張国中村で木下弥右衛門・仲の子として誕生(日吉丸)下層階級からのスタート。出自には諸説存在1554年(天文23年)18歳今川家家臣・松下之綱への奉公を経て織田信長に小者として仕官信長との運命的出会い。能力主義の組織で台頭1561年(永禄4年)25歳浅野長勝の養女・ねね(おね)と婚姻強固な内助の功と尾張武士団との縁戚関係を構築1570年(元亀元年)34歳金ヶ崎の戦いで殿(しんがり)を務め、信長の危機を救う命懸けの軍功により織田家重臣としての地位を確立1573年(天正元年)37歳浅井氏滅亡後、北近江3郡を与えられ今浜(長浜)城主へ「羽柴秀吉」と改姓し、一国一城の主へ大出世1582年(天正10年)46歳本能寺の変、中国大返し、山崎の戦いで明智光秀を討伐信長の後継者争いで主導権を奪取(清須会議)1583年(天正11年)47歳賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を自害に追い込む/大坂城築城開始織田旧臣閥の頂点に立ち、天下人としての足場を固める1585年(天正13年)49歳関白に就任。四国平定(長宗我部元親を降伏させる)武家でありながら朝廷の最高位に就く政治的離れ業1586年(天正14年)50歳太政大臣就任。正親町天皇より「豊臣」の姓を賜る名実ともに豊臣政権が樹立1588年(天正16年)52歳刀狩令を発布。聚楽第に後陽成天皇を行幸させる民衆の武装解除を推し進め、諸大名に忠誠を誓わせる1590年(天正18年)54歳小田原征伐で後北条氏を滅亡させ、奥州仕置を実施天下統一を達成。日本全土の支配を掌握1592年(文禄元年)56歳文禄の役(第1次朝鮮出兵)開始大陸侵略の泥沼化。政権内部の亀裂が顕在化1593年(文禄2年)57歳淀殿が拾(のちの豊臣秀頼)を出産関白・秀次との継承権対立が深刻化1595年(文禄4年)59歳豊臣秀次を高野山へ追放、切腹を命じる(秀次事件)一族粛清による豊臣政権基盤の大幅な脆弱化1597年(慶長2年)61歳慶長の役(第2次朝鮮出兵)開始諸大名の疲弊と反発が極限に達する1598年(慶長3年)62歳伏見城にて死去。五大老・五奉行に秀頼の補佐を託す巨星墜つ。政権は徳川家康を中心とした権力闘争へ
前田 葵

前田 葵

サステナビリティ研究家

マーケティングと消費者心理のトレンドを分析し、現代のヒット商品の背景を読み解きます。

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