竹鶴政孝の生涯と真実|リタの愛とサントリー鳥井信治郎との絆を追う
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日本のウイスキー産業を切り拓いた2人の巨頭、竹鶴政孝と鳥井信治郎の関係は、単なる主従やライバルという言葉では片付けられません。本物のウイスキー造りを模索していた鳥井が、摂津酒造を辞して失意の底にあった政孝を年俸4,000円(当時の大卒初任給が50円前後の時代に、現在の価値換算で数千万円相当)という破格の条件で招聘したことから、歴史的な協業が始まりました。
政孝は「本場スコットランドの風土に最も近い北海道に蒸溜所を造るべきだ」と主張しましたが、鳥井は「消費地に近く、名水が湧く京都近郊の山崎こそ最適」と判断。1924年、日本初の本格モルトウイスキー蒸溜所となる山崎蒸溜所が稼働しました。しかし、1929年に発売された初の国産ウイスキー「白札」は、本場のピート香(煙臭)が強すぎて当時の日本市場では受け入れられず、興行的には惨敗に終わります。
ここから2人の道は決定的に分かれていきます。鳥井は「日本人の繊細な味覚に合わせたブレンド」を目指し、政孝は「スコッチの本質である重厚なピート香を妥協せず追求する」姿勢を崩しませんでした。これが寿屋(サントリー)退社理由の根本にある思想の相違です。10年の契約期間を満了した1934年、政孝は円満に寿屋を退社し、自身の理想郷である北海道余市へと向かいました。