麻生次郎氏の遭難事故の真相と現在|経緯と麻生家に遺した爪痕
麻生次郎氏の遭難事故の真相と現在|経緯と麻生家に遺した爪痕にまつわる役立つ知識を詳しく紐解きます。
麻生次郎氏の遭難事故における経緯を時系列で辿ると、海という自然の猛威がいかに急激かつ残酷であったかが理解できます。5月中旬の相模湾は、穏やかな春の陽気から一転して「メイストーム(春の嵐)」と呼ばれる急激な低気圧の発達による突風が吹き荒れやすい危険な海域として知られています。
出航時、海面は比較的平穏であり、通常のセーリング訓練に支障はないと判断されていました。しかし午後に入り、西の空から急速に発達した寒冷前線が通過。局地的なガスト(突風)が相模湾一帯を直撃し、最大瞬間風速は20メートル毎秒以上に達したと推計されています。激しい三角波が立ち並ぶなか、次郎氏の操舵するヨットは成すすべなく完沈(180度転覆)に至りました。
同乗していた部員や近隣の艇は何とか救助されたものの、次郎氏の姿だけが荒れ狂う波間に消えていきました。海上保安庁の巡視船艇が緊急配備され、横須賀地方総監部からの海上自衛隊哨戒機、さらには米海軍厚木基地のヘリコプター部隊までもが協力体制を敷くという、平時の海難事故としては過去に例を見ないレベルの大捜索態勢が構築されました。
公式発表資料および当時の海上保安庁記録によれば、捜索範囲は相模湾一帯から房総半島沖にまで拡大され、連日延べ数百隻の船舶と数十機の航空機が投入されました。祖父である吉田茂氏も大磯の自邸から双眼鏡を手に海を見つめ続け、父・太賀吉氏や兄・太郎氏も現地対策本部で必死の救出を祈り続けました。しかし、冷海水温下での生存可能時間を遥かに超えても本人は発見されず、事故から数日を経て生存の望みは絶望的となり、後日、戸籍法に基づく認定死亡の法的手続きが執られました。