三菱重工爆破事件の真相と動機|犠牲者被害から犯人の現在まで総力検証

三菱重工爆破事件の真相と動機|犠牲者被害から犯人の現在まで総力検証にまつわる役立つ知識を分かりやすく発信ます。

1974年8月30日、金曜日の午後0時45分。昼休みを終えて職場に戻るビジネスパーソンや、ランチへ向かう人々でごった返す東京都千代田区丸の内二丁目において、戦後日本を震撼させる爆裂音が響き渡りました。標的となったのは、日本の重工業を牽引していた三菱重工業東京本社ビル(現・丸の内二丁目ビル)の玄関前でした。

犯行グループが仕掛けたのは、ドラム缶大のペール缶2個に詰められた約45キログラムの塩素酸塩系爆薬です。道路側の植え込みに隠された時限爆弾が炸裂した瞬間、凄まじい衝撃波がビル街を直撃しました。三菱重工ビルの外壁は吹き飛び、数十枚に及ぶ巨大なガラス窓が一瞬にして粉砕。割れた無数のガラス片は鋭利な刃物となって頭上から降り注ぎ、通行人やロビーにいた人々を容赦なく切り刻みました。

警察庁および消防庁の公式記録によると、この爆破による死者は8名、重軽傷者は376名に達しました。死亡した犠牲者の多くは、商談でビルを訪れていた社外の会社員や、近隣のビルから食事に出ていた通行人、受付にいた職員など、犯行グループが主張する「企業の意思決定者」とは全く無関係の一般市民でした。現場には肉片と血痕が散乱し、丸の内の目抜き通りは見渡す限りの硝煙と阿鼻叫喚の地獄絵図と化しました。

この事件における悲劇性を決定づけた要因の一つが、避難誘導の遅れです。犯行グループは爆発の約8分前、三菱重工の代表電話に「ビルの通り側に爆弾を仕掛けた。直ちに避難させろ」と予告電話を入れていました。しかし、当時の日本社会にはビル街で爆弾テロが起きるという切迫した認識が薄く、電話を受けた警備側が悪質ないたずら電話と判断。全館放送などの避難措置が講じられないまま、運命の午後0時45分を迎えることとなったのです。

前田 葵

前田 葵

サステナビリティ研究家

マーケティングと消費者心理のトレンドを分析し、現代のヒット商品の背景を読み解きます。

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