甲斐国とは現在のどこ?山梨県との違いや武田信玄の歴史を徹底解説
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甲斐国の歴史を語る上で欠かせないのが、中世以降に台頭した「甲斐源氏」と、その嫡流である武田氏の軌跡です。
甲斐源氏のルーツと武田氏の台頭
平安時代後期、清和源氏の棟梁である源義家の弟・新羅三郎義光(源義光)が甲斐国司として着任し、その三男である源義清が巨麻郡市河荘(現在の市川三郷町周辺)に土着したことが甲斐源氏の始まりです。義清の子である清光は甲府盆地各地に一族を配置し、その中から巨麻郡武田郷(現在の韮崎市)を本拠地とした武田信義が「武田」の名字を名乗りました。
武田信義は治承・寿永の乱(源平合戦)において富士川の戦いで平氏を破るなど、源頼朝に匹敵する大勢力として名を馳せました。その後、鎌倉幕府の警戒を受けて勢力を削がれる苦難の時代を迎えますが、室町時代には甲斐国守護職の地位を確固たるものにしていきます。
「人は城、人は石垣」──躑躅ヶ崎館に見る信玄の合理主義
戦国時代、甲斐国は内紛によって荒廃していましたが、武田信虎が国内を統一し、永正16(1519)年に本拠地を石和から甲府へと移転させました。このときに築かれた居館が躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた/現在の武田神社境内)です。
そして信虎の嫡男として生まれたのが、戦国屈指の名将・武田信玄(晴信)でした。信玄は信濃侵攻を推し進め、上杉謙信との川中島の戦いを経て、今川領の駿河、徳川領の遠江・三河へと勢力を拡大。「甲斐の虎」として天下にその名を轟かせます。
ここで注目すべきは、信玄が他国の戦国大名のように巨大な天守閣や高石垣を持つ山城を平時の居城にしなかった事実です。躑躅ヶ崎館は背後に要害山城を控えつつも、基本的には平坦な居館構造でした。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」の言葉通り、信玄は家臣団の結束と領民への善政こそが最大の防壁であると考えました。さらに、甲府盆地全体を取り囲む山々を天然の巨大城壁と見立て、軍事的な迎撃体制を整えていたのです。
武田氏の滅亡と新府城の悲劇
元亀4(1573)年、上洛の途上で信玄が病没すると、後を継いだ武田勝頼は領土を最大化させる一方で、織田信長・徳川家康連合軍との長篠の戦いで大敗を喫します。勝頼は防御力の限界を悟り、天正9(1581)年、躑躅ヶ崎館を捨てて韮崎の台地に広大な平山城「新府城(しんぷじょう)」を築いて遷都を決行しました。
しかし、重なる普請の負担による領民の疲弊や織田軍の急速な侵攻に耐えきれず、未完成のまま自ら新府城に火を放って敗走。天正10(1582)年3月、天目山の麓で勝頼一族が自害し、名門・甲斐武田氏は滅亡の刻を迎えました。