昔のお風呂はどう沸かした?五右衛門風呂から昭和バランス釜の驚く進化

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日本人の入浴スタイルは、最初から現在のように「たっぷりの湯に首まで浸かる」ものではありませんでした。公衆衛生と住宅事情の進歩に伴い、入浴形態は劇的な変貌を遂げています。

バスリエ等の生活文化調査や住宅設備メーカー各社の史料によると、江戸初期の銭湯は湯を浴槽に張る形式ではなく、熱した小石に水をかけて蒸気を充満させる「蒸し風呂」形式でした。やがて登場したのが「戸棚風呂」です。これは浴槽の底に膝の高さ程度(数寸)だけ湯を張り、下半身を浸しながら上半身は引き違い戸の中に籠もって蒸気で蒸すという、現代のサウナと半身浴を掛け合わせたような設備でした。出入口には湯気が外へ逃げるのを防ぐための低い開口部「柘榴口(ざくろぐち)」が設けられ、内部は薄暗く蒸気が立ち込めていました。

この江戸時代の銭湯における混浴(入り込み湯)は、現代のような好奇の視線ではなく、暗い浴室環境と限られた燃料・水源の中で市民が効率的に衛生を保つための共同体ルールとして成立していました。湯をなみなみと張ると莫大な薪が必要となるため、少ない湯量で多くの町民が汗を流すための合理的な選択だったのです。明治時代に入ると、政府による近代化政策と風紀改善の観点から混浴が禁止され、柘榴口を取り払って高い天井と大きな湯船を備えた「改良風呂」が登場。ここにおいてようやく、現代に通じる「たっぷりのお湯に肩まで浸かる」入浴スタイルが定着しました。

時代が昭和へと移っても、戦後しばらくの間は一般住宅に内風呂が備わっていることは稀でした。総務省の住宅・土地統計調査の長期推移を見ても、昭和30年代初頭の全国の内風呂普及率は30%未満にとどまっていました。多くの単身者や若年労働者は、トイレ共同の風呂なしアパートから銭湯へ通う生活が当たり前であり、銭湯は単に体を洗う場所にとどまらず、地域の情報交換や世代間交流が行われる公衆社交場として機能していました。

この風景を一変させたのが、昭和40年代以降の公団住宅(日本住宅公団)による大規模団地の造成と、前述のバランス釜の標準装備です。これにより内風呂普及率は昭和40年代末には70%を突破し、入浴は「町内コミュニティの共有体験」から「家族内のプライベートな憩い」へと急速に姿を変えていきました。

中村 さくら

中村 さくら

マネー&キャリアエディター

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。

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