足尾銅山と田中正造|天皇直訴の真相と谷中村廃村が残した教訓
話題沸騰中の 足尾銅山と田中正造|天皇直訴の真相と谷中村廃村が残した教訓について、主要な情報を整理して公開しています。
田中正造の闘争史において、最も悲痛で過酷な舞台となったのが栃木県下都賀郡谷中村です。政府と栃木県は、鉱毒被害の根本原因である足尾銅山の操業停止や抜本的な除毒工事を行う代わりに、「渡良瀬川下流に遊水地を造り、遊水地内に毒水を沈殿させる」という驚くべき方策を打ち出しました。その遊水地の予定地として白羽の矢が立てられたのが、鉱毒反対運動の拠点となっていた谷中村でした。
1904年(明治37年)、栃木県会は谷中村の買収方針を決定し、翌年には村の廃止と隣接する藤岡町への強制編入を強行しました。政府は村民に対してわずかな補償金での立ち退きを迫り、買収に応じない残留農民に対しては、堤防を意図的に破壊して村を水没させ、小学校を廃校にし、役場機能を停止させる兵糧攻めを行いました。
田中正造はこの暴挙に対し、自ら代議士の肩書を捨てて谷中村の農民・島田宗三らの家に身を寄せ、農民とともに泥水に浸かりながら抵抗を続けました。しかし1907年(明治40年)6月、政府は土地収用法に基づく代執行を断行。警官隊と数百人の工夫が村に乱入し、残留していた村民の家屋を金梃子と大槌で次々と打ち壊しました。破壊された屋根の残骸の上で、正造と農民たちは泣き叫びながら立ち尽くすしかありませんでした。
現在、広大な湿地帯と美しい水面をたたえ、多くの野鳥が集まる渡良瀬遊水地は、2012年にラムサール条約湿地に登録され、自然のオアシスとして親しまれています。しかし、その広大な水底には、公害の証拠を隠蔽し、一握りの巨大資本を守るためにひとつの村が力づくで消し去られたという、消すことのできない歴史の傷跡が横たわっています。