通州事件とは?日本人200名超の悲劇と日中戦争激化の全真相
通州事件とは?日本人200名超の悲劇と日中戦争激化の全真相とはどんな影響があるのか? 専門的な分析を整理してお届けします。
通州事件が近代日本史に遺した最大の爪痕は、「国民世論の不可逆的な激高」と、それに伴う「和平工作の完全な崩壊」にあります。
事件の発生直後、東京日日新聞(現・毎日新聞)や朝日新聞をはじめとする国内主要紙は、通州での惨殺事件を写真や証言を交えて号外で大々的に報道しました。軍人同士の衝突ではなく、無防備な婦女子を含む民間人が虐殺されたという報せは、日本列島を未曾有の怒りと復讐心で包み込むことになります。
この世論の激昂によって生み出されたスローガンが「暴支膺懲(ぼうしようちょう=暴虐なる支那を懲罰せよ)」でした。当時、近衛文麿内閣や陸軍参謀本部の一部(石原莞爾作戦部長ら)には、戦局をこれ以上北支から拡大させず早期に収拾しようとする「不拡大方針」を模索する勢力が存在していました。しかし、沸騰した国民感情を背景に主戦派が急速に勢力を拡大。不拡大派は「腰抜け」「居留民を見殺しにするのか」と批判を浴びて失脚を余儀なくされました。
結果として日本政府は中国に対する追加派兵を決定。翌8月13日に上海で発生した第二次上海事変を契機に、戦火は華中へ、そして首都・南京へと飛び火し、日中双方が引くことのできない8年間に及ぶ泥沼の全面戦争へと突入していったのです。