葛飾北斎はなぜ画狂老人卍を名乗った?70代改名の衝撃真相と壮絶な最期
葛飾北斎はなぜ画狂老人卍を名乗った?70代改名の衝撃真相と壮絶な最期についての疑問解決ガイドをお届けします。
「画狂老人卍」を名乗った晩年の約15年間、北斎の制作スタイルには決定的な変化が生じました。それまで彼を商業的スターダムに押し上げていた「木版画(錦絵)」のプロデュースから徐々に距離を置き、絵師自らが直接筆を執って紙や絹に描き上げる画狂老人卍 肉筆画へと熱狂的に傾倒していった点です。
版元や彫師、摺師の手を介する版画では、自らが到達した極微のニュアンスを100%再現しきれない――そう直感した北斎は、一対一でカンバスと対峙する道を選びました。この時期に生み出された葛飾北斎 晩年 代表作には、『弘法大師修法図』『日新除魔図(獅子図)』『怒涛図』など、人間の精神エネルギーの限界を試すような傑作群が並びます。
その到達点であり、北斎生涯の絶筆(絶作)として知られるのが、没年である嘉永2年(1849年)正月、90歳で描かれたとされる画狂老人卍 富士越龍図(北斎館蔵)です。雪を抱く霊峰富士の裾野から、黒雲を巻き上げながら天空へと昇りゆく一匹の龍。画面右下には、老衰による震えを隠しきれない画狂老人卍 筆の跡がはっきりと刻まれ、「九十老人卍筆」の署名と「百」と読める白文方印が捺されています。
富士山を現世の象徴とするならば、雲を突き抜けて天へと駆け上がる黒龍は、老いた肉体を脱ぎ捨てて芸術の高みへと昇華しようとする北斎の魂そのもの。死の3ヶ月前、もはや自由に動かない指先に筆を縛り付けてまで描いたとされるこの一幅には、技巧を超越した神々しいまでの迫力が宿っています。