太宰治はなぜ志賀直哉を痛烈批判したのか?『如是我聞』と確執の真相
太宰治はなぜ志賀直哉を痛烈批判したのか?『如是我聞』と確執の真相について詳しく解説いたします。専門家の見解をご覧ください。
決定的な亀裂が入ったのは、1948年(昭和23年)1月号の雑誌『文学行動』に掲載された座談会でした。文壇の大御所として出席した志賀直哉は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった太宰治の短編『犯人』や代表作『斜陽』について、率直すぎるほどの酷評を下したのです。
志賀は座談会の中で、「太宰君の『犯人』というのを読んだが、実にくだらないと思った」「もっと気取らずに、ありのままを書けばいいのに」といった趣旨の発言を展開しました。さらに『斜陽』に登場する没落華族の言葉遣いに対しても、「貴族の言葉遣いを知らない」「あんな言葉は使わない」と容赦のないダメ出しを突きつけました。
この発言は、プライドが高く繊細極まりない太宰の自尊心を根底から粉砕しました。太宰にとって『斜陽』は、自身の出自と破滅への祈りを込めて心血を注いだ渾身の傑作です。それを「言葉遣いが違う」「気取っている」と上から目線で切り捨てられたことは、全人格と作家生命を否定されたに等しい屈辱でした。