暴支膺懲の意味とは?日中戦争を泥沼化させた言葉の罠と歴史の真相
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暴支膺懲というスローガンが日本社会を席巻した直接の引き金は、1937年7月7日に北京郊外で起きた盧溝橋事件でした。夜間演習中の日本軍への数発の銃撃から始まったこの衝突は、本来であれば現地の停戦協定によって局地的な解決を見出す余地が残されていました。当時の陸軍省内部でも、対ソ連防備を重視する参謀本部第1部長の石原莞爾ら「不拡大派」が戦線拡大に猛烈なブレーキをかけようと試みていました。
しかし、事態は急速にエスカレートします。政権を担当していた近衛文麿首相は、国民的人気を背景に発足したばかりの第1次近衛内閣を率いていましたが、事態を収拾するどころか強硬姿勢を強めていきました。7月11日、近衛内閣は「北支派兵声明」を発表し、現地軍の増派を決定。さらに同年8月、上海で大山勇夫海軍中尉らが殺害された事件を機に第2次上海事変が勃発すると、戦火は中国全土へと拡大しました。
近衛内閣は8月15日未明、「支那軍の暴戻を膺懲し、以て南京政府の反省を促す」という公式声明(帝国政府声明)を発表します。ここに政府公認の国家方針として「膺懲」の二文字が刻まれました。中国側の抗日ナショナリズムや排日運動を「不法な暴動」と一方的に規定し、自らの軍事侵入を「やむを得ぬ自衛と制裁」と位置づける論理が完成した瞬間でした。平和的な外交解決の芽は摘まれ、日本は出口のない軍事行動の深淵へと足を踏み入れていったのです。