ムッソリーニ逆さ吊りの真相|ロレート広場の処刑劇と独裁者の最期
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1945年春、連合国軍の攻勢と北イタリア全域に広がったパルチザンの大規模蜂起(4月25日蜂起)によって、ナチス・ドイツの傀儡政権であった「イタリア社会共和国(サロ共和国)」は音を立てて瓦解しました。もはや防衛が不可能と悟ったムッソリーニは、4月25日の夕刻、長年拠点としていたミラノを脱出し、中立国スイスへの越境を目指して北上を開始します。
しかし、退却するドイツ軍の対空砲部隊の車列に合流した逃走劇は、わずか2日で行き詰まりました。4月27日、スイス国境に近いコモ湖畔の町ドンゴ(Dongo)で、共産党系を中心とする第52ガリバルディ旅団のパルチザン部隊が車列を検問。パルチザン側はドイツ兵の通過を認める条件として、同行していたイタリア人全員の引き渡しを要求しました。ムッソリーニはドイツ軍のオーバーコートとヘルメットを着用し、後部座席で泥酔した下士官を装って潜伏を試みたものの、特徴的な顎のラインと鋭い眼光を見破られ、あえなくドンゴでの捕縛劇に至ったのです。
捕らえられたムッソリーニは、合流してきた熱烈な身内である愛人クララ・ペタッチとともに、湖畔の小村ジュリーノ・ディ・メッツェグラの農家に極秘監禁されました。処刑を主導したのは、ミラノのイタリア北部国民解放委員会(CLNAI)から全権を帯びて現地へ急行した「ヴァレリオ大佐」ことパルチザン幹部ヴァルテル・アウディージョでした。後年彼が残した回想録『イタリア国民の名において』によると、4月28日午後4時過ぎ、二人は豪奢なヴィラ・ベルモンテ邸の門前に連行され、短機関銃によって銃殺されました。これが独裁者ムッソリーニの最期の瞬間であり、法的な正式裁判を経ない軍事即決処分でした。