藤田嗣治『アッツ島玉砕』の真相|なぜ名画は画壇追放の標的となったか
藤田嗣治『アッツ島玉砕』の真相|なぜ名画は画壇追放の標的となったかの全貌を分かりやすくまとめてご紹介します。
藤田嗣治『アッツ島玉砕』はなぜ描かれ、画壇から追放される原因となったのか——この問いに答えるためには、まず1943(昭和18)年5月のアッツ島の戦い 歴史的背景を振り返る必要があります。アラスカ沖のアリューシャン列島に位置するアッツ島で、山崎保代陸軍大佐率いる日本軍守備隊約2,600名は、圧倒的な兵力と物量を誇る米軍を相手に絶望的な戦闘を強いられました。5月29日、残存兵力による最後の突撃が行われ、翌日、大本営は日本陸海軍史上初となる「玉砕」の二文字を公式発表しました。
軍部はこの悲劇を「美談」として国民に刷り込み、本土決戦に向けた国民の士気を引き締めるための象徴に仕立てようと画策します。そこで白羽の矢が立ったのが、当時すでにフランス・パリで名声を博し、卓越した描写力を持つ藤田嗣治でした。陸軍報道部からの正式な嘱託を受けた藤田は、軍から支給されたわずかな資料と自身のイマジネーションのみを頼りに、わずか20数日という驚異的なスピードで縦193.5cm、横259.5cmに及ぶ巨大キャンバスを完成させました。
しかし、1945年8月の敗戦によって状況は180度暗転します。連合国軍総司令部(GHQ)による戦争犯罪の追及が始まると、戦時中に軍部へすり寄り、競うように戦争画を描いていた日本の画家たちは一斉に自己保身へと走りました。新しく結成された日本美術会の幹部連中や主要な美術関係者は、「藤田こそが軍部に取り入り、画家たちを戦争協力に巻き込んだ張本人である」という言説を作り上げ、すべての藤田嗣治 戦争責任 真相を彼一人に押し付ける策動を開始したのです。
昨日まで藤田を「国民的巨匠」と持ち上げていた同僚画家たちが、掌を返して糾弾の刃を向ける——この陰惨な同調圧力と裏切りこそが、藤田を絶望の淵へと突き落とし、二度と祖国の土を踏まないと誓わせた追放劇の実態でした。