鹿鳴館のシャンデリアはどこへ?護国寺に眠る遺構とバカラ説の真相
鹿鳴館のシャンデリアはどこへ?護国寺に眠る遺構とバカラ説の真相の疑問点について、分かりやすい解説を取りまとめてご紹介します。
シャンデリアの光の下で何が繰り広げられていたのかを理解するには、建築そのものの文脈を知る必要があります。設計を手がけたのは、日本近代建築の父と称されるジョサイア・コンドル建築の代表作、英国人建築家ジョサイア・コンドルです。2階建てのレンガ造り、ルネサンス様式を基調としながらも、イスラム風のアーチを取り入れた優美なベランダを持つ外観は、当時の東京において異次元の近代美を誇っていました。
しかし、そこで開催された鹿鳴館舞踏会の真相は、華麗なロマンスばかりではありませんでした。推進役であった外務卿・井上馨の主たる狙いは、西欧列強に対して「日本はすでに野蛮な国ではなく、対等な法権を持つ文明国である」とアピールし、不平等条約を改正することでした。毎夜のように燕尾服を着せられた明治の元勲たちや、コルセットで締め上げられたドレスに身を包んだ貴婦人たちが、慣れないワルツに足をもつれさせながら踊っていたのです。
当時のフランス人海軍士官で作家のピエール・ロティは、その著書『秋の日本』の中で、鹿鳴館の舞踏会を「まるで猿の仮装行列のようだ」と冷ややかに書き残しました。西洋の模倣に必死だった日本のエリート層の焦燥と、それを見下ろす西欧列強の視線。護国寺の天井からぶら下がるシャンデリアは、その痛々しいまでの国家の背伸びと、夜会の喧騒が引いた後の冷え切った孤独を、何百個もの光の粒で余すところなく見つめていたのです。