絵島生島事件の真相とは?大奥最大スキャンダルと1400人処分の謎
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権力の階段から突如として転落した二人は、事件後にどのような人生を歩んだのでしょうか。
絵島のその後は、信州高遠藩(現在の長野県伊那市)への配流という厳しい幽閉生活でした。高遠藩主・内藤頼卿に預けられた絵島は、石高わずか3万石あまりの高遠藩にとって「万が一にも逃走や変事があってはならない幕府の重罪人」でした。高遠城外に建てられた「囲い屋敷」は板塀と青竹の二重の囲いで閉ざされ、格子窓の外には番人が常駐。昼夜を問わず行動を監視される過酷な環境でした。
しかし、絵島は自らの運命を取り乱すことなく受け入れ、朝夕の読経を欠かさず、質素で礼儀正しい暮らしを崩しませんでした。その気高い振る舞いに、監視役の藩士や給仕の女性たちも次第に深い敬敬の念を抱くようになったと伝えられています。絵島は赦免されることなく、事件から27年後の寛保元年(1741年)、61歳でこの世を去りました。
一方、稀代の色男とされた歌舞伎役者・生島新五郎のその後を追うと、遠島となった三宅島で約28年間に及ぶ過酷な流人生活を送ることになります。島では特異な芸道人として島民に読み書きや歌舞伎の手ほどきを教え、慕われていたとされます。8代将軍・徳川吉宗の時代になり、寛保2年(1742年)に赦免令が出されて江戸へ帰還を果たしましたが、その翌年に73歳で波乱の生涯を閉じました。