山内房治郎と任天堂の真相|花札屋から世界企業へ跳躍した創業秘話

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任天堂の創業者である山内房治郎が、京都市下京区鍵屋町で「任天堂骨牌」の看板を掲げたのは、1889年(明治22年)9月23日のことでした。当時30歳だった房治郎が手掛けたのは、伝統的な工芸技術を注ぎ込んだ花札の製造販売でした。

江戸幕府によって長年厳しく禁じられていた「カルタ(かるた)」は、明治政府の発足後も賭博規制の対象となっていました。しかし、1885年に明治政府が花札の製造販売を事実上解禁したことを受け、房治郎は素早く商機を捉えました。房治郎が製造した花札は、桑の木の皮を用いた上質な和紙に、顔料を一色ずつ手作業で刷り重ねる極めて精緻なものでした。特に石灰や粘土の扱いに長けていた房治郎の職人技は、反りが少なく滑らかな手触りの札を生み出し、当時の京都・大阪の遊技場や旦那衆の間で「極上の仕上がり」と絶賛を浴びることになります。

「任天堂」という屋号の語源については、「運を天に任せる」「天に任せてやるべきことを尽くす」など諸説が存在しますが、同社史や関係者の記録によれば、職人としての誠実なものづくりと、勝負事に挑む粋な洒落心が込められていたと伝えられています。京都の小さな工房で始まったこの営みこそが、のちに世界の遊びの概念を塗り替える任天堂 創業の歴史と真相の第一歩でした。

山本 拓海

山本 拓海

ヘルス&ウェルネスアドバイザー

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。

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