三沢みつはる(光晴)の軌跡と事故の真相|四天王が遺した光と影

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2000年、ジャイアント馬場の死後に勃発した運営方針の対立から、三沢はほぼ全選手を引き連れて全日本プロレスを離脱し、プロレスリング・ノアを設立しました。東京ドーム大会を満員にし、順風満帆に見えた「方舟」の航海でしたが、2000年代後半になると経営環境は暗転します。日本テレビによる地上波テレビ中継の打ち切り、スポンサー撤退、チケット販売の低迷が重くのしかかりました。

そして迎えた2009年6月13日、広島県立総合体育館グリーンアリーナ小アリーナ。GHCタッグ選手権の前哨戦として行われた試合(潮崎豪&三沢光晴 vs 齋藤彰俊&バイソン・スミス)で事故は発生しました。試合開始27分過ぎ、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた三沢は、マットに倒れたまま身動きが取れなくなります。レフェリーの呼びかけに対し、三沢が絞り出した言葉は「動けない」でした。

意識を失い心肺停止状態となった三沢に対し、リング上ではAEDによる蘇生処置と心臓マッサージが行われ、救急搬送された広島大学病院で同日午後10時10分、死亡が確認されました(享年46)。

警察の検視および公式発表による死因は頸椎離断(頸髄損傷)。ネット上では「特定の技が直接の殺人技だったのではないか」といった誤解や臆測が飛び交いましたが、法医学的見地や関係者の証言が示す真相は異なります。長年にわたる過激な受身の蓄積によって三沢の首は骨棘が形成され、神経を圧迫する重度の頸椎症に侵されていました。事故当時は首を回すことすら困難な状態であり、日常的な衝撃にすら耐えられないほど肉体の限界を迎えていたのです。

山崎 陸

山崎 陸

ガジェット&アプライアンスライター

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