津山三十人殺しの真相と都井睦雄の動機|遺書と現場の現在が暴く惨劇の全貌
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都井睦雄はなぜ、これほどまでに激しい復讐心を募らせたのか。当時の司法省調査資料や警察調書、関係者の回想から浮かび上がるのは、近代の国家主義と前近代の村落共同体が交錯する中で生じた、強烈な孤立とプライドの崩壊でした。
睦雄は幼少期に両親を肺結核で亡くし、祖母の手ひとつで育てられました。学業成績は極めて優秀で、小学校時代は神童と称されるほどでしたが、体が弱かったことや祖母の過度な囲い込みもあり、旧制中学校など上級学校への進学を断念。尋常高等小学校を卒業後は家業の農業に従事しながら、自作の小説や子供向けの童話を書いて集落の子供たちに読み聞かせるなど、温厚で知的な青年として知られていました。
しかし、当時の農村部に根強く残っていた夜這い(伝統的性慣習)を通じて睦雄が関係を持っていた集落の女性たちとの関係が、彼の運命を大きく暗転させます。睦雄は1937年、自身も両親と同じく結核に罹患していることが判明しました。
当時、結核は「不治の病」であり、強烈な感染の恐怖と遺伝的偏見の対象でした。さらに決定打となったのが、同年行われた帝国陸軍の徴兵検査における「丙種(事実上の不合格)」判定です。日中戦争が開戦し、軍国主義が急速に強まる当時の日本社会において、徴兵検査の不合格は「一人前の男ではない」という烙印を押されたことを意味しました。
病の発覚と徴兵不合格を境に、それまで睦雄と親密だった女性たちは手のひらを返すように彼を拒絶し、集落の他の男たちへと乗り換えていきました。さらに集落住民からも露骨な冷遇や陰口、村八分に近い排斥を受けるようになります。自尊心を粉々に打ち砕かれた睦雄は、自身を嘲笑した女性たちや集落の有力者に対するすさまじい憎悪を募らせ、復讐計画を練り上げていきました。