昭和のポルノ映画はなぜ熱狂を生んだ?黄金期から規制の裏側まで徹底解説

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昭和のアダルト文化の変遷を語る上で欠かせないのが、1960年代末から1970年代初頭にかけて日本の映画産業が直面した壊滅的な構造不況です。一般社団法人日本映画製作者連盟の歴史統計によると、日本の映画館入場人員は1958年の11億2,745万人をピークに急落し、1970年代初頭には2億人を割り込む水準まで落ち込みました。家庭へのカラーテレビ普及とレジャーの多様化が、大映の倒産や日活の撮影所売却といった大手映画会社の危機を招いたのです。

この危機的状況下で、日活が1971年に下した決断が全製作ラインを成人映画へ転換する「日活ロマンポルノ」の立ち上げでした。低予算・短期間撮影という厳しい制約のなか、「10分に1回の濡れ場」「上映時間70分前後」という最低限の商業ルールさえ守れば、テーマや演出手法は監督に完全一任されるという極めて自由な創作環境が生まれたのです。

一方、東映は1960年代後半から石井輝男監督による「異常性愛路線」や、過激なアクションとエロティシズムを融合させた「ピンキー・バイオレンス」を展開しました。東映がポルノ路線へ傾斜した理由は、任侠映画ブームの終焉を見据え、徹底した娯楽至上主義と観客動員至上主義を貫いたことにあります。日活が映像美や人間ドラマに傾斜したのに対し、東映は徹底してセンセーショナルかつアナーキーなエネルギーを前面に押し出し、男性観客の熱狂的な支持を集めました。

さらに、大手の枠組みとは別に、新東宝の解体後などに誕生した独立系プロダクションによる「ピンク映画(昭和レトロ)」も、低予算ゲリラ撮影を武器に全国の成人映画館を席巻しました。社会の急激な近代化に伴うサラリーマン層の鬱屈したエネルギーと、表現のタブーに挑む映画人たちの野心が合流した結果、昭和のポルノは単なる性的消費物資を超えた社会現象へと膨れ上がっていったのです。

山下 哲也

山下 哲也

自動車・モビリティライター

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。

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