徳川家康と織田信長はなぜ20年裏切らなかったのか?清洲同盟の真相

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2020年代半ばから現在に至るまで、SNSや歴史愛好家のコミュニティ、大手ネット掲示板(5ちゃんねるや知恵袋など)において定期的に大激論が巻き起こるテーマが、「徳川家康 本能寺の変 黒幕説」です。「信康を殺された怨恨があったのではないか」「天下を手に入れるために明智光秀と共謀したのではないか」という仮説は、エンターテインメント作品の格好の題材として消費され続けています。

ネット上の生の声やアンケート調査を見ると、「家康は信長に殺されかけていたから先手を打ったはず」「安土城で光秀が接待役を解任された事件は家康と光秀の密談カモフラージュだったのでは」といった推測が一定の支持を集めています。しかし、事件当時の家康の動向を一次史料に基づいて克明に追跡すると、そうした黒幕説のリアリティは完全に崩壊します。

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が発生した瞬間、家康はわずか30名余りの側近(本多忠勝、榊原康政、井伊直政ら)とともに、丸腰同然の状態で堺を遊覧中でした。もし家康が光秀と共謀していたり、事前に変の発生を知っていたりしたならば、敵地同然の上方に少人数で孤立するなどという自滅的な行動を取るはずがありません。信長死亡の報を受けた際、家康は激しく狼狽し、一時は「信長公の後を追って自害する」と取り乱した記録(『三河物語』)が残されているほどです。

その直後に敢行された「神君伊賀越え」は、落ち武者狩りが横行する危険地帯を命からがら突破する決死の脱出行でした。途中で家臣が命を落とし、路銀をばら撒きながら必死に三河へと逃げ帰った現場の切迫感は、自作自演の演出などでは決して説明がつかない本物の危機でした。現地・伊賀路の険峻な山道を実際に踏査した歴史研究家たちの調査でも、「当時の家康一行は、謀略を仕掛ける側ではなく、完全な想定外の事態に直面してパニックに陥った被害者側であった」という見解で一致しています。黒幕説は、後世の結果論から組み立てられたフィクションに過ぎません。

山本 拓海

山本 拓海

ヘルス&ウェルネスアドバイザー

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。

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