右の頬を打たれたらの真実|無抵抗ではない痛烈な抵抗だった聖書の真相
右の頬を打たれたらの真実|無抵抗ではない痛烈な抵抗だった聖書の真相に関する深掘り解説を丁寧に解説いたします。
キリストの真意が非暴力のプロテストであった証拠は、「右の頬を打たれたら 続き」に記された具体例からも明白である。聖書には頬の話題に続き、当時の人々にとって身近だった2つの理不尽な状況が提示されている。
ひとつは「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」という教えである。当時のパレスチナにおいて、貧困層が借金の担保として衣服を差し押さえられることは日常茶飯事だった。しかし、下着(チュニック)だけでなく外側の外套(上着)まで相手に渡してしまえば、本人は法廷で全裸になる。古代ユダヤ社会の宗教観において、裸体を晒すこと自体よりも「他人の裸体を見る側」に極めて重い宗教的・道徳的恥辱が課された。着るものすべてを奪い取った強欲な債権者は、全裸の債務者を前にして自らの強欲さと非人道性を群衆の面前で白日の下に晒される羽目になる。
もうひとつは「だれかが一ミリオン(約1.5km)行くように強いるなら、二ミリオン一緒に行きなさい」という指示である。当時ユダヤを軍事占領していたローマ帝国には「アンガレイア」と呼ばれる軍用徴発令が存在し、ローマ兵は占領地の住民に対して荷物を1マイル運ばせる法的な権利を持っていた。しかし、過度な反乱を防ぐため、ローマの軍規では市民に1マイルを超えて荷物を運ばせることは厳罰の対象と定められていた。もし住民が自ら進んで2マイル目も運び続ければ、軍規違反で処罰される危機に怯えた兵士は「頼むから荷物を下ろしてくれ」と懇願する立場へと転落する。
これらのエピソードに通底しているのは、被害者側が能動的にルールを逆手に取り、不当な加害構造を無力化する知略である。キリスト教の愛と許しとは、搾取に怯えて震えることではなく、ユーモアと尊厳をもって不条理な権力を骨抜きにすることであった。