根津遊郭の跡地と移転理由の真相|東大至近の花街が消滅した歴史を歩く
根津遊郭の跡地と移転理由の真相|東大至近の花街が消滅した歴史を歩くの基本情報から最新動向までを一挙に解説しました。
根津の花街としての起源は、江戸時代中期の宝永3年(1706年)にまで遡ります。江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が甲府藩主・徳川綱豊(のちの第6代将軍・家宣)の屋敷跡地に根津神社の壮麗な天下普請社殿を新造した際、全国から集結した大工や左官職人たちを相手にする居酒屋が門前に立ち並びました。やがてこれらの店が女性を雇って給仕をさせるようになり、幕府非公認の遊里、いわゆる「岡場所」として急速に肥大化していったのが根津遊郭の始まりです。
江戸市中において公認の遊里は長らく日本橋から浅草裏へと移った吉原(新吉原)のみに限定されていましたが、根津は上野寛永寺や湯島天神に近接し、武家屋敷街と町人街の結節点に位置していたことから、非公認でありながら一大歓楽街として賑わいを見せました。幕府も黙認を続けていたわけではなく、天保13年(1842年)の水野忠邦による「天保の改革」では、風俗紊乱の温床として徹底的な弾圧を受け、遊女屋は破却されて業者は新吉原へと強制移籍させられる憂き目に遭っています。
しかし、根津の生命力は途絶えませんでした。幕末の混乱期を経て明治維新を迎えると、新政府の開化政策と衛生管理名目による遊廓再編の流れに乗り、根津は劇的な復活を遂げます。明治維新直後、新政府は治安維持と性病予防(梅毒検査の義務化)を目的に遊廓の公認化と集約を推進。明治初年に正式な公認遊廓として認可された根津八重垣町界隈には、新吉原に倣って大門(総門)が構えられ、通りの中央には200本もの桜が植えられ、雪洞(ぼんぼり)が灯されるなど、絢爛豪華な花街へと変貌を遂げたのです。