正岡子規は野球の名付け親ではない?殿堂入りの真相と訳語の歴史
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子規の野球への傾倒は、単なる机上の翻訳作業にとどまりませんでした。1886年(明治19年)頃に野球を覚えた子規は、東京大学予備門(のちの一高)時代、学業そっちのけで練習に明け暮れました。
ポジションは過酷を極める捕手(キャッチャー)。当時の捕手防具は極めて粗末で、マスクや厚手のミットすら十分に普及していませんでした。子規は顔面や指に打球を受け、手を血豆と打撲で腫らしながらも、ホームベースの後ろに座り続けて投手の投球を受け止めました。
同級生であった夏目漱石との交流エピソードも有名です。子規は寄宿舎で親交を深めた漱石に熱心に野球の面白さを説き、漱石もまた子規の誘いに応じて白球を追いました。漱石がのちに記した随筆や書簡の中にも、血気盛んにボールを投げていた子規の姿が生き生きと描写されています。
のちに子規は結核を発病し、喀血(かっけつ)を繰り返す過酷な闘病生活に入ります。医師から激しい運動を固く禁じられた後も、グラウンドで泥だらけになって白球を追った日々を懐かしみ、病床からベースボールへの尽きぬ思慕を文字に刻み続けました。