創価学会と顕正会の違いとは?対立の歴史と勧誘の実態を徹底解剖
創価学会と顕正会の違いとは?対立の歴史と勧誘の実態を徹底解剖についての疑問解決ガイドをご紹介します。
両団体の関係史を紐解くと、血で血を洗うかのような抗争の歴史に行き当たります。すべての発端は、1970年代に日蓮正宗総本山である大石寺(静岡県富士宮市)に建立された巨大宗教施設「正本堂(しょうほんどう)」を巡る激突でした。
当時、創価学会は第3代会長・池田大作氏の強烈なリーダーシップのもと、破竹の勢いで会員を拡大していました。その財力と動員力を結集して建立された正本堂を、創価学会と日蓮正宗宗門は「日蓮大聖人の御遺命たる本門の戒壇の実質的達成」と位置づけようとしました。事実上の布教の総仕上げとして国家的な象徴に仕立て上げようとしたのです。
これに命がけで噛みついたのが、当時日蓮正宗の一講中であった「妙信講(後の顕正会)」を率いる浅井甚兵衛・昭衛父子でした。「日蓮の御遺命は、天皇をはじめ国家が公式に認めて建立する『国立戒壇』でなければならず、民間の寄付で建てた正本堂を御遺命の戒壇と偽るのは大不敬・大謗法(だいほうぼう)である」と猛烈に糾弾したのです。
対立は教義論争にとどまらず、実力行使へと発展します。1974年(昭和49年)10月4日、激昂した妙信講の青年部員らが東京・信濃町の創価学会本部に街宣車で押し寄せ、激しい乱闘騒ぎを起こす「創価学会本部襲撃事件」が勃発しました。この事態を極めて重く見た日蓮正宗宗門は、妙信講に対して即座に講中解散処分を下し、浅井父子らを信徒除名(事実上の破門)処分に付しました。ここにおいて、日蓮正宗から放逐された妙信講が独立組織「顕正会」へと歩み出すことになります。
歴史の皮肉はそれだけにとどまりません。妙信講を排除して宗門の主導権を握り続けた創価学会もまた、教権を握る宗門(阿部日顕法主)との間で教義解釈や信徒統制を巡って決定的に対立。1991年(平成3年)11月、日蓮正宗から「解散処分・破門通告」を受けることとなりました。結果として、両団体ともに日蓮正宗から破門された「破門組」でありながら、破門の契機となった正本堂問題の怨恨を引きずり、現在に至るまで決定的な敵対関係を固定化させているのです。