鬼才・升田幸三の勝負哲学と生涯|名人に香車を引いた男の真相

鬼才・升田幸三の勝負哲学と生涯|名人に香車を引いた男の真相にまつわる役立つ知識を詳しく紐解きます。

升田幸三の歩んだ道は、決して順風満帆なエリートコースではありませんでした。1918年(大正7年)3月21日、広島県双三郡吉舎町(現在の三次市)の貧しい農家に生まれた升田は、少年時代から並外れた負けん気の強さと将棋の才覚を示していました。家出同然で大阪へ向かった升田は、関西将棋界の名匠であった木見金治郎門下へ入門します。

内弟子時代の修業は凄まじく、升田は木見邸で雑用をこなしながら、猛烈な勢いで腕を磨きました。後に最大の好敵手となる大山康晴もまた、5歳年下の弟弟子として同じ木見門下に入門してきます。二人は同じ釜の飯を食いながら、互いの才能を認めつつも、火花を散らすライバル関係を形成していきました。

しかし、若き天才の前に立ちはだかったのが戦争の暗雲でした。1943年、升田は召集令状を受け取り、大日本帝国陸軍の一兵卒として南方の激戦地・ポナペ島(現ポンペイ島)へ送られます。補給の途絶えた孤島で、升田を襲ったのは飢餓と悪性マラリアでした。戦友たちが次々と飢餓や病魔に倒れていく極限状態の中、升田自身も体重が30キロ台にまで激減し、死線を彷徨います。

報道各社の記録や本人の手記によれば、升田はこの地獄のような戦地で「もう一度、生きて将棋の駒を握りたい」という渇望だけを心の支えに命を繋ぎ止めたといいます。奇跡的に復員を果たした升田の身体には、生涯にわたって胃潰瘍や心臓の持病、そして南方の後遺症が刻み込まれました。戦後の升田が見せた鬼気迫る勝負への執念は、死の淵から生還した者だけが持つ凄絶な覚悟に裏打ちされていたのです。

井上 凛

井上 凛

シニアコンテンツプロデューサー

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。

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