スカーレットモデル神山清子の壮絶実話|ドラマと異なる結末と現在
スカーレットモデル神山清子の壮絶実話|ドラマと異なる結末と現在の注目ポイントを分かりやすくまとめてご紹介します。
陶芸家として円熟期を迎え、息子・賢一さんも母と同じ陶芸の道へ進み始めた1990年、最大の悲劇が神山家を襲います。清子さんの最大の理解者であり、寸越窯の後継者でもあった賢一さんが、29歳の若さで「慢性骨髄性白血病」を発症したのです。
医師から告げられた余命はわずか数年。助かる唯一の道は骨髄移植でしたが、母親である清子さんや妹の久美子さんとは白血球の型(HLA型)が適合しませんでした。当時、血縁者以外から骨髄の提供を受ける公的な仕組みは日本に存在せず、非血縁者間の移植を望む患者は見殺しに等しい状況に置かれていたのです。
「息子の命を諦めるわけにはいかない」——清子さんは作陶の手を完全に止め、息子を救うための社会活動へと身を投じます。滋賀県内を中心に「滋賀骨髄バンクを育てる会」を結成し、街頭に立って署名集めとドナー登録の呼びかけを開始。一人の母親の情熱は、全国の患者団体や医療従事者を巻き込む巨大なうねりとなり、1991年12月の「骨髄移植推進財団(現・日本骨髄バンク)」の設立を強力に後押ししました。
しかし、残酷にも制度の整備は賢一さんの病状の進行に間に合いませんでした。1992年4月21日、賢一さんは31歳という若さで帰らぬ人となります。この母と子の壮絶な命の記録は、2005年に映画『火火(ひび)』(高橋伴明監督、田中裕子主演)として映像化され、多くの日本人の涙を誘いました。