【徹底解説】東大全共闘とは?エリート学生が安田講堂に立てこもった真相
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学生運動の歴史と経緯を俯瞰すると、1960年の安保闘争までは日本共産党傘下の全学連が主流でした。しかし1960年代後半に入ると、既成左翼の硬直した官僚主義に反発する学生たちが、党派を超えた連合体として「全学共闘会議(全共闘)」を組織するようになります。その象徴的存在が東大全共闘でした。
東大紛争の直接的な発火点は、1968年1月の東大医学部処分問題にあります。当時、医学部ではインターン制度に代わる「登録医制度」の導入をめぐり、研修医への無給労働や劣悪な待遇に対する反発が渦巻いていました。青医連(青年医師連合)を中心とする学生・研修医が待遇改善を求めてストライキに突入した際、医局員との間で揉み合いが発生します。大学当局は現場にいなかった学生を含む17名に対して退学などの不当処分を下しました。
事実誤認に基づく処分を撤回させようと医学部の学生が時計塔の地下講堂を占拠すると、大学総長の大河内一男執行部は事態を力で抑え込もうと、1968年6月15日に機動隊をキャンパスに導入しました。これが決定打となります。「学問の府に国家権力を引き入れた」という大学側の姿勢に、それまで運動に冷淡だった法学部や理学部、教養学部の一般学生たちが激昂し、抗議の輪は一気に全学へと拡大しました。
同年7月5日、東大全共闘が正式に結成されます。彼らは特定の共産主義セクトの綱領に従う集団ではなく、党派に属さない一般の学生であるノンセクトラジカルが主力を占めていました。彼らが突きつけた問いは、単なる処分撤回にとどまらず、「大学とは何か」「国家の歯車としてのエリートを生産する知の構造そのものが不正ではないか」という、大学解体と自己否定の思想闘争へと先鋭化していったのです。