太宰治の誕生日と遺体発見日の謎|6月19日「桜桃忌」の真実と生涯

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1948年6月13日深夜、小雨が降りしきる中、太宰治は仕事部屋兼生活の拠点としていた三鷹の山崎富栄の部屋を出ました。富栄は戦災で夫を失った聡明な美容師であり、太宰の献身的な看護人であり、最期の伴走者となった女性です。

二人が命を絶った現場は、三鷹通りの玉川上水にかかる万助橋のやや上流とされています。当時の玉川上水は、現在のような浅く緩やかな流れではなく、護岸が急傾斜で切り立ち、幅約6メートル、水深は深い場所で大人の背丈を優に超え、梅雨の濁流が渦巻く「人喰い川」と恐れられていました。現場には二人が腰を下ろしてウイスキーを飲んだ形跡があり、土手には激流へ滑り落ちた靴の跡が残されていました。

事件直後から現代に至るまで、「太宰は富栄に無理やり心中させられたのではないか」「引きずり込まれた事故死ではないか」という議論が週刊誌やネット上で幾度となく蒸し返されてきました。しかし、遺された一次資料を検証すると、太宰の精神的・肉体的限界は明白でした。重度の結核による頻繁な喀血、戦後の激変した文壇でのプレッシャー、さらには国税庁からの容赦ない追徴課税通知。何よりも『人間失格』という自伝的破滅文学を完結させたことで、太宰は自己の芸術を完全に燃やし尽くしていたのです。

妻・美知子へ宛てた遺書には、「誰よりも愛してゐました」「お前をきらひになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです」という率直な告白が残されていました。山崎富栄の手記にも、死に至るまでの日々の懊悩と、二人で死を覚悟していく心理的プロセスが克明に綴られています。無理心中説は、愛され続けた文豪の死を他者の責任に帰したいというファンの心理的防衛機制が生み出した側面が強く、実態は「死を不可避としていた作家と、その絶望を全身で引き受けた女性の共生関係の果て」であったと言わざるを得ません。

山崎 陸

山崎 陸

ガジェット&アプライアンスライター

最新のテクノロジーと生活デザインの融合をテーマに、国内外の最新トピックを発信しています。

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