清朝最後の皇帝・溥儀はなぜ庭師へ転落したのか?波乱の生涯と死因の真相
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1945年8月のソビエト参戦によって満州国は崩壊し、溥儀はソ連軍の捕虜となります。その後、新中国成立後の1950年に中華人民共和国へと引き渡され、撫順戦犯管理所に収監されました。宮廷では靴紐一つ自分で結べず、配膳された食事に毒が入っていないかを常に怯えていた溥儀にとって、囚人としての労働は文字通りの人間的再生の場となりました。
1959年、毛沢東による特別恩赦令によって釈放された溥儀は、一人の自由な市民として北京に戻ります。そして周恩来首相の計らいにより、中国科学院が管理する北京植物園の庭師としての職を得ました。
毎朝決まった時間に出勤し、植物の苗に水をやり、温室の温度を管理する――。かつて何億人もの生殺与奪の権を握るとされた男が、土にまみれて植物の成長を喜ぶ日々を送ったのです。当時の同僚たちの回想録によると、溥儀は真面目で腰が低く、バスの乗り方や小銭の計算に戸惑いながらも、身分の重圧から解放された日々に心からの安らぎを見出していたと記録されています。
1962年には、周恩来らの仲介で看護師の李淑賢(り しゅくけん)と5度目の結婚を果たし、人生で初めて「対等な夫婦としての家庭の温もり」を経験しました。
しかし、穏やかな晩年は長く続きませんでした。1966年に毛沢東が主導する「文化大革命」が勃発すると、紅衛兵による旧体制の徹底的な弾圧が始まります。「封建領主の頭目」であった溥儀も格好の標的となり、自宅を荒らされ、罵倒される恐怖の日々に逆戻りしました。
持病が悪化する中、周恩来の指示で辛うじて人民病院への入院が認められたものの、すでに手遅れでした。1967年10月17日、愛新覚羅溥儀の死因となったのは、長年患っていた「腎臓がん」およびそれに伴う「尿毒症」の合併症でした。享年61歳。かつての皇帝の死は、文革の狂乱の最中、ひっそりと公表されただけでした。