百人一首・蝉丸「これやこの」の真意|皇子説と琵琶法師の謎を解く
百人一首・蝉丸「これやこの」の真意|皇子説と琵琶法師の謎を解くを詳しくリサーチ! 読者が気になる 重要ポイントを分かりやすく展開します。
歌の完成度の高さとは裏腹に、詠み手である蝉丸の出自は謎に満ちています。平安時代の公式記録である六国史や貴族の日記には、蝉丸という貴族・歌人の確たる事績は記載されていません。この空白を埋めるように、後世にかけて複数の伝説が生まれました。
代表的な仮説が「皇子説」です。中世の注釈書や説話集では、蝉丸は第60代・醍醐天皇の第四皇子、あるいは宇多天皇の皇子(敦実親王)の家臣であったと語られます。高貴な生まれでありながら盲目であったために逢坂山に捨てられた、あるいは世を儚んで自ら隠遁したという悲劇的な貴種流離譚です。
一方で、最も民衆に定着したのが「盲目の琵琶法師伝説」です。『今昔物語集』(巻第二十四)には、逢坂の関の庵で秘曲「流泉」「啄木」を奏でる盲目の達人・蝉丸のもとへ、雅楽の名手である源博雅(みなもとのひろまさ)が三年間通い詰め、ついにその秘曲を伝授されたという感動的な逸話が記されています。
さらに室町時代に入ると、世阿弥の作とされる能の名曲『蝉丸』によって、その人物像は決定的なものとなりました。物語では、盲目を理由に逢坂山に捨てられた蝉丸皇子と、髪が逆立ち狂乱して諸国を放浪する姉の「逆髪(さかがみ)」が、逢坂の関で偶然再会を果たします。過酷な運命を背負った姉弟が互いの境遇を慰め合い、やがて再び涙ながらに別れていくというあらすじは、逢坂の関が持つ「出逢いと別れの境界」という性格を極限まで劇化させた傑作です。